人体解剖研修がボイストレーニング指導に革命を起こす理由

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伊藤 俊輔

京都大学法学部卒。解剖学・音声学等の科学的根拠に基づいた論理的な指導が支持され、これまで70を超える企業・大学・団体に対し、ボイストレーニング講座を実施。受講者は3,000人を超える。

ボイストレーナーとして活動する中で、私は常に「声」をもっと深く理解したいと願い続けてきました。筋肉がどのように連携して、呼吸が行われ、声が作られ、声の響きが生まれるのか。

これまで10年以上、書籍などで解剖学を学んできましたが、正直なところ、そこには限界を感じていました。
「いくら机の上で学んでも、どうしても見えないものがある」

そんな悶々とした日々の中、私の解剖学の師である理学療法士の山本篤先生のご指導のもと、ハワイメディカルリサーチセンターでの人体解剖研修に参加する機会を得ました。
実際にメスを手にし、ご献体を自分の目で見て触れることで、「本物の解剖学」を学ぶことができる。これは、ボイストレーナーとして、そして一人の人間として、かけがえのない経験になるだろうと確信しました。

今回は、このハワイでの解剖研修で私が何を感じ、何を学び、そしてこれから、日々のボイストレーニング指導にどう活かしていくのかを、包み隠さずお話ししたいと思います。

目次

1.なぜ、ボイストレーナーが人体解剖研修に?

ボイストレーニングの世界では、「お腹から声を出して」「頭に響きを感じて」「声を遠くへ飛ばすように」といった、イメージや感覚に基づいた指導が非常に多く見受けられます。
もちろん、これらは発声の感覚を掴む上で有効なアプローチの一つです。
しかし、私は長年、「実際に身体の中では何が起こっているのか」、その詳細なメカニズムを深く理解したいという強い探求心を持っていました。

そこで解剖学を学んでみたものの、専門書で学ぶだけでは、筋肉の連動や共鳴腔の立体的な広がりなど、「リアルな身体」で起こる複雑な現象を完全に把握することはできませんでした。時には、イメージと実際の身体の動きとの間にギャップを感じることもあったのです。

そこで、私は「本物の知識」を追求すべく、今回の人体解剖研修への参加を決意しました。自らメスを手にし、ご献体を通して声を生み出す器官一つひとつを直接目で見て、触れることで、これまで感覚でしか語られなかった発声のメカニズムを、より詳細な解剖学的知見として獲得したい。

それこそが、ボイストレーナーである私がこの貴重な研修に参加した最大の理由です。この経験は、私のボイストレーニング指導に、より科学的で根拠に基づいたアプローチをもたらすと確信していました。

2.発見と驚きの連続

この研修で特に有意義だったのは、身体の中で協調して動く部分と、ある程度独立して動く部分を明確に理解できたことです。

これは、ホルマリン固定ではなく、冷凍保存されたご献体であったからこそ得られた、非常に貴重な経験でした。通常のホルマリン固定されたご献体では組織が硬化してしまい、「動き」や「連動」を観察するのは困難です。
しかし、冷凍保存されたご献体は、より生体に近い組織の質感や弾力性を保っており、まるで生きているかのような筋肉の連動性を目の当たりにすることができました。

ここでは書ききれないほどの発見がありましたが、特に印象的だった「協調して動く部分」と「ある程度独立して動く部分」の例を挙げさせていただきます。

協調して動く部分として挙げられるのは、頭頂部の筋肉と軟口蓋です。具体的には、前頭筋、帽状腱膜、後頭筋の繋がりを意識し、頭皮全体を上方向に持ち上げるような動きを試したときのことでした。
ボイストレーニングでよく言われる、いわゆる「糸で吊るされたような」感覚を再現すると、驚くことに口腔内の軟口蓋がピンと張るという変化が起こったのです。これは、頭部の表層の筋肉の緊張が、軟口蓋の挙上に影響を及ぼす可能性を示唆しており、感覚的な指導に、新たな解剖学的根拠を与えてくれる発見でした。

一方、ある程度独立して動く部分として発見したのは、喉仏の驚くべき安定性です。例えば、首を回旋させる(横に振る)際にも、喉仏の位置がほとんど影響を受けずに安定していることに驚きました。
これは、喉仏とそれを支える筋肉群を包む繊維組織と、首を回旋させる筋肉を包む繊維組織が、互いに滑らかに滑り合うことで、喉仏がある程度独立してその位置を保っていることを示しています。
この安定性こそが、どのような体勢でも安定した発声が可能な理由の一つだと実感できました。

3.ボイストレーニング指導への応用

この人体解剖研修で得た知識と経験は、当教室のボイストレーニング指導を以下の点において、さらに進化させてくれるでしょう。

3-1.「できること」と「できないこと」の線引き

この人体解剖研修を通して、私はボイストレーニングにおいて「できること」と「できないこと」の線引きをより明確にできました。特に、これまで漠然と語られてきた身体の使い方について、解剖学的根拠に基づいてその実態を把握できたことは大きな収穫です。

例えば、「横隔膜を鍛える」という表現をよく耳にしますが、実際にご献体で横隔膜を観察すると、非常に薄い膜状の筋肉であり、ダンベルを上げ下げするような意味合いでの「鍛える」という対象にはなり得ないことがはっきりと分かりました。
横隔膜は、その構造上、力を入れることよりも、いかに効率的かつ柔軟に使いこなすか、つまり「使い方を習得する」ことの方がはるかに重要だと実感しました。

同様に、「声帯の閉鎖筋群を鍛える」というアプローチも、解剖を通してその難しさを痛感しました。
声帯自体を除いた、声帯を閉鎖させる筋肉群は非常に微細で薄く、直接的に「鍛える」ことは現実的ではないというのが正直な印象です。それどころか、声帯閉鎖筋群を無理に鍛えようとすると、その周辺の不必要な筋肉(例えば首や顎の筋肉)を力ませてしまい、かえって発声のバランスを崩し、喉を痛める原因にもなりかねないことが明確に理解できました。
大切なのは、これらの繊細な筋肉が無理なく自然に機能するよう、使い方を習得し、周辺の筋肉の緊張を解放することだと確信しました。

このように、解剖学的な視点から身体の構造と機能を深く理解することで、巷に溢れるボイストレーニングの情報を鵜呑みにするのではなく、科学的根拠に基づいた、本当に効果的な指導法を選択できるようになりました。
生徒さんの身体に無理なく、最短距離で理想の声に近づくための「できること」に集中し、「できないこと」からくる無駄な努力や力みを排除する。
これが、私のボイストレーニングが目指す新たな境地です。

3-2.身体の連動性を意識した指導

また、身体の連動性を詳細に観察できたことで、トレーニングの最適化が可能になりました。

例えば、舌と舌骨の連動性を間近で観察できたことは、長年行ってきた舌のストレッチ方法に大きな変革をもたらしました。
当教室はよく、舌を大きく出すストレッチを指導しますが、その際にどのような姿勢や方向で行えば、最も効果的に舌骨と甲状軟骨の距離が広がり、甲状舌骨筋に最大のストレッチがかかるのかを、ご献体で詳細に検証することができたのです。

この発見は、生徒さんへの指導において大きな強みとなります。
単に「舌を出して」と伝えるのではなく、「この姿勢で、このように舌を出すことで、喉の奥のこの部分にストレッチがかかるのを意識してください」と具体的に指示できるようになりました。
これにより、生徒さんは漠然とした指示ではなく、身体のどこに、どのような目的でアプローチしているのかを明確に理解し、再現性高くトレーニングに取り組むことが可能になります。

このように、解剖研修で得た「リアルな」知識は、一つ一つのトレーニングの効果を最大限に引き出すための、具体的な「最適解」を見つけることへとつながっています。

4.最後に

今回のハワイでの人体解剖研修は、私にとってボイストレーナーとしての知識を深めるだけでなく、人生観にも大きな影響を与える経験となりました。

この貴重な学びの機会を与えてくださったのは、他でもない、ご自身の尊いお身体を研究の発展のためにご提供くださったご献体ご本人、そしてそのご決断を支えられたご遺族の皆様です。その計り知れないご厚意と崇高な精神に、心より深く感謝申し上げます。

書籍だけでは決して得られなかった「リアルな解剖学」の知識、そして声を生み出す身体の神秘と複雑さを肌で感じることができたのは、ひとえにご献体の存在があってこそです。
このかけがえのない経験から得た知見と感動を胸に、私はこれからもボイストレーナーとして、その知識と技術を最大限に活かし、生徒さん一人ひとりの「最高の声」を引き出すお手伝いを続けていくことを固く決意しています。

いただいた恩恵を無駄にすることなく、日々の指導を通して社会に還元していくことこそが、ご献体とご遺族の皆様への最大の報恩だと信じています。

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